先日、息子の小学校最後の運動会がありました。
肢体不自由児の息子は、何をするにもたくさんの方に応援してもらえて、本当にありがたい存在です。
同じ支援級で同級生のママ友とは、お互いに涙で「お疲れ様、本当に6年間成長したね」と声を掛け合いました。
小さい頃から息子を見てきてくれた方々が、毎年成長を一緒に喜んでくれることにも、心から感謝しています。
拍手の中で感じた“嬉しさ”と少しの戸惑い
時には、あまり親しくない方からも「感動した」「ありがとう」と涙を流して声をかけていただくこともありました。
その気持ちは本当にありがたいし、感謝しているのですが・・・正直に言うと、そのたびに少しモヤモヤする自分もいて。
昔なんて、少し敵意すら感じていたかもしれません。
振り返ると、「応援されてうれしい」というより、「そんな特別な子=みんなと違う」と浮き彫りになってしまうようで、どこかショックだったのだろうと思います。
今でも、大げさに褒められると「ちょっとちょっと、目立っちゃうから控えめにお願いしますよ…」という気持ちになったり、
「感動したいだけじゃないの?」「何も知らないのに一部だけ見て決めつけないで」と、反発心が出る時もあります。
「とっても苦労してるんでしょう?頑張ってるわね!」「特別なものを持って生まれてきたのね!」などと言われると、
心の中ではつい、
『いえいえ、普通ですし、とてもいい子で、悪ガキで、わがままで、頑張り屋で、とても大変だけど面白くて、毎日が楽しくて幸せですが、そんなこと全く知らないですよね?』
——なんて意地悪な気持ちになることもあります(笑)。
トータルではもちろん「ありがたい」と思っている。
でも同時に、複雑な気持ちがあるのも本音です。
どちらも、障害のある子を育てる親として、大切な感情なんだと思います。
だからと言って、「感動されたくない」と思うわけでもありません。
息子を見て心を動かしてくださるなら、それは本当にありがたいこと。
ただ、その中で生まれる複雑さや戸惑いも、否定せずに大切にしていきたいと思うようになりました。
同じ支援級のママと話して気づいたこと
同じ支援級の同級生で、とても仲良しの女の子がいます。
その子はいつも元気で明るいのですが、注目されたり、いつもと違う雰囲気になると固まってしまうタイプ。
過去には徒競走のスタートができず、大泣きしながら先生とゆっくり走ることもありました。
でも今年の運動会では、100m走を無事に走り切ってゴール!
ママもみんなも「よく頑張ったね!」と大喜びでした。
だけど、ダンスではびっくりしたのか動きが止まり、みんなが腰を落として踊る中、立ったままの姿が少し目立ってしまって。
その後、その子のママが泣いていて。
「参加できただけでよかったねって満足しなきゃいけないけど、本当はもっとできるのにって思っちゃう。
欲を出しちゃってダメだよね、輪を乱しちゃって…感情がぐちゃぐちゃ」と話してくれました。
私は彼女の気持ちがすごく分かってしまって。
色々な言葉をかけながらも、どれも何だか的外れな事は、言いながら分かっていました。
彼女の気持ちが分かるからこそ、安易に「分かるよ」なんて言えない。
障害児の育児は、喜びと悔しさ、誇りと戸惑い、感謝と少しの反発心——全部が入り混じっていて、どれも本音で、とても複雑です。
でも、どれも無理に整理しなくていいのかなと、今は感じます。
どの感情も、わが子を想う気持ちから生まれているものだから。
運動会が終わった今、少し複雑な気持ちにはなったけれど、それを自覚できたことは良かったなと思います。
息子も、友達も、それぞれのペースで成長している。
そして私たち親も、こうして気持ちに折り合いをつけながら、一緒に少しずつ前へ進んでいるんだな、と感じます。
障害児の母としての、複雑な私の気持ちも、ちゃんと大切にしてあげたいなと思っています。




